三鷹市議会議員
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大城みゆき物語

今まで、そしてこれから

第一回 ■ひまわり作業所■

 沖縄大学のゼミの先生の紹介で障害者の作業所の施設見学をしたときの光景を大城みゆきは忘れることが

できません。部屋の一番奥のベッドに水頭症で寝たきりの子どもがいました。


「この子はほとんど意識がないんです。だからでしょうけど、親も一度も見舞いに来ないのね。」


看護婦さんはそう説明したあと、その子の頭をなでたり、手をさわったりして、

「でも、がんばって生きてるんだよね。」と声をかけています。

その子の目がギョロッと動きました。看護婦さんは、「うれしいの?」と聞き、また頭をなでてあげました。

どんなに重い障害があろうとも、人が生きている限り、命の瞬間、

瞬間を少しでも輝かせようと努力している人の姿はとても感動的でした。


「私もこういう仕事がしたい」中学生のころからマザーテレサに憧れていた大城みゆきは、

そのときそう思ったのです。


   *     *

   

 大学を卒業して2年間は、無認可保育所の保母として働きました。

26歳のとき、2週間ほど遊んで帰るつもりで東京へ行き、三鷹市井口の叔母さん(母の妹)の家に泊めて

もらいました。いろいろ話をしていると、叔母さんの夫の三瓶(さんぺい)さんは、精神障害者の作業所

・ひまわり作業所の運営委員長をしていることがわかり、大城みゆきは言いました。


「その作業所見てみたい!」

「いいよ、でもオレがおじさんだって言うなよ」



 朝から見学に行った大城みゆきは、作業所の仕事を手伝ったり、

メンバーの人たちとおしゃべりをしたりして、実に楽しく一日を過ごしました。


その様子を見ていた人が、三瓶さんに言いました。


「いい娘じゃない! うちの作業所で働いてくれないかな」


 ちょうど、ひまわり作業所の所長が産休に入るため代替職員をさがしていた時だったのです。

三瓶さんもその気になって、「どうだろう」と聞いてきました。


 思わぬ展開におどろきましたが、もとより障害者の施設で働くのが夢ですから、

喜んでOKしたいところです。でも、と大城みゆきは考え直しました。

というのは、最近、集団就職で本土に働きに行っていた高校時代の同級生が5人とも、

親に呼び戻されて沖縄に帰ってきたばかりだったのです。


「本土の人と結婚されたら大変だ。近くにいないと孫の顔も見られないし、

病気も心配だ」という親の願いを受け入れての集団帰郷でした。

だから、ウチの親も許さないだろうと思ったのです。

「親がOKならいいです」と、大城みゆきが答えると、三瓶さんが言いました。


「じゃあ、今すぐ電話して聞いてくれよ」


 大城みゆきはすぐ沖縄の実家に電話しました。「お前がやりたかった仕事なんだから一生懸命やりなさい」 母親の意外な言葉がすぐには信じられず、大城みゆきは「本当にいいの?」と確かめたのでした。翌日から2週間、遊びのスケジュールをすべて中止して、大城みゆきは障害者のメンバーといっしょに作業所で働きました。


   *     *     *


 障害者の人たちが、病院を退院して一人暮らしを始め、作業所に通うことで仲間をつくり、

働く喜びを実感し、笑顔を取り戻していく姿に大城みゆきは感動し、励まされていました。


 しかし一方で、精神障害者への誤解や偏見も根強く、市内の事業所まわりをしたときも、仕事をもらうのに苦労しました。社会的にも精神障害者は障害者として認められていなかったので、障害者手当てもなく、心身障害者とは扱いがちがっていました。障害者の自立を支える作業所の仕事をつうじて、大城みゆきは社会や政治の矛盾にも目を向けざるを得ませんでした。


 市議会議員になってほしいと言われたときも、障害者や高齢者、子どもたち、社会的に弱い立場の人たちの声が生きる政治を実現したいという思いから、その仕事を迷わず引き受けたのです。


第ニ回 ■出会い■ ※第二回から第五回までは夫の神田高さん(弁護士)が語ったものです
 

 1995年9月、沖縄でおきた米兵の少女暴行事件をきっかけに米軍基地反対の大きな運動がもりあがっていたころです。


 共産党の沖縄県議団が上京し、沖縄県民への日頃の支援に感謝する「ごくろうさん会」が、池袋の中華料理店でひらかれました。 


 私は、戦争のために土地を使わせないとがんばっている「反戦地主」の弁護士として、この会に招かれていました。


私が受付で署名しようとしていると、うしろから紅い服を着た小柄な女性が息せき切って走ってきました。

その女性がすごく急いでいるようなので、私はどうぞとゆずってあげました。胸に議員バッジをつけています。どこかの地方議員かなと思って受付名簿を見ると、「三鷹市 大城美幸」と書かれていました。


   *      *


 1996年8月ごろ、まだ暑いさなかでした。沖縄出身のZという友人から「沖縄出身で共産党の女性議員がくるから一緒に飲もう」と誘われました。


 大城の方は「沖縄のことになると夢中になってしゃべりだしたら止まらない弁護士がいるよ。

大城さんと話が合うと思うよ」と誘われたようです。場所は、高円寺の抱瓶(だちびん)という沖縄料理のお店でした。


 飲み会のメンバーはほかに学生のカップルとZさんの5人でした。みんなよく飲み、よくしゃべり、場はすっかりなごんでいました。


 

「腹がへったなぁ。沖縄そばがいいな」私が注文しました。


 大きなどんぶりの沖縄そばがきました。私が一人で食べようとすると、となりに座っていた大城みゆきが、ごく自然な仕草で沖縄そばを5人に取り分けはじめたのです。


 

 大城みゆきの生まれ育った沖縄の家は11人の大家族でした。11人がいつも揃って食卓を囲み、料理はみんなで分けて食べていました。私にとってそれはカルチャーショックと言ってもいいような強烈な体験でした。


 

 自分が注文した料理は自分が一人で食べるという習慣や私の感性が否定されたわけですが、不思議に不快な気持にならず、その時、私は「いい娘だな」と思ったのです。私が41歳、大城みゆきが31歳でした。


第三回 ■結婚■

 抱瓶(だちびん)での出会いのあと私たちは週に一度、10日に一度というペースで会い、飲みつつ語り、語りつつ飲むという居酒屋デートを重ねていました。


 「私は世界中のどこの海よりも沖縄の家の前の海が好き!エメラルドグリーンの、とってもきれいな海なの。きれいなだけじゃないのよ、遠浅でね、干潮になると子どもの膝くらいしか波がこないから、子どもたちはみんな海に入って、貝とか、タコとか、いろんな魚を獲って食べてた。ウニなんかね、その場で食べるととってもおいしいの。ハマグリのカラをスプーン代わりにして、ウニをすくって食べると何とも言えないよ!潮風にあたって、波をうけて、獲物をさがして海を歩きまわるのって、とっても気持いいの。そしてね、獲物がとれたときはもう、ほんとにうれしかった。何もとるものがないときはね、ナマコとか、モズクをとって帰るの。」


 大城みゆきは大きな瞳をキラキラ輝かせながら、ふるさと沖縄の思い出を語るのです。話を聞いているとその情景が目に浮かぶようでした。私は仕事柄たくさんの沖縄の人と会いますが、こんなに手放しで沖縄への愛を語る人は初めてでした。彼女は自然も人もまるごと沖縄が好きなのです。


 「イチャリバ チョウデー」という沖縄の諺があります。出会った人は皆兄弟という意味なのですが、彼女はそのコトバそのものです。初対面の人でも信じてすぐ仲良くなれるし、心がひらかれていて、あっけらかんとした屈託のない明るさ、素直さはまぶしいほどでした。会うたびに私は彼女に魅かれていき、「この人だ!」と心に決めたのです。


   *     *


 

 「結婚したい人がいるの。私、結婚するよ。神田さんという弁護士、一緒に挨拶に行くから。」大城みゆきが沖縄の実家に報告しました。すると、大城家から返事がきました。「沖縄まで何回も足を運んでもらうわけにいかないから、来るならその日に結納をやりたい。形だけでいいから。」


 大城みゆきの実家は、祖父は区長、父親は教育長、村長をつとめた家柄なので、村の古くからの伝統を重んじる気風がつよいのです。私としてはまず、みゆきとの結婚を認めてもらうためのご挨拶のつもりだったのですが、結納となれば私の両親もいっしょでなければと、神田家みんなで沖縄に行くことになりました。


 大城家の実家に着いて玄関に入ったとき、みゆきのお父さんが大声で言いました。

「おい、タカシ! よく来た。そのビールとってくれ。」


 

 いきなり名前を呼ばれ、用を言いつけられたのでビックリしましたが、嬉しそうに言うお父さんを見て、

「家族の一員として認められている」という喜びと親しみが湧き上がってきました。


 大城みゆきにとっても父親のこの迎え方は嬉しいことでした。というのは、大城みゆきが4年前、共産党の市議会議員に立候補するとき、実家の父親の了解を求めるため、岩田議員と一緒に沖縄まで行ったのです。

大城の父親は保守的で、村でも有名な頑固者で通った人です。7時間も待たせた挙句に、「犬や猫じゃあるまいし、首に縄をつけとくわけにもいかん。好きにしろ!」と怒られ、それ以来、キチンとした和解のないままになっていたからです。


 「あッ、お父さんは許してくれたんだあ」大城みゆきはそう感じたのです。家族、親戚、隣近所の人たち、集まれるだけ集まって、沖縄の伝統にのっとった結納の儀式が終わると、祝いの宴の始まりです。酒がまわったところで、私の父親が立って踊りだしました。それはクイチヤーという踊りで、このときは両手にもったビール瓶をカチャカチャ鳴らしてリズムをとり踊るのです。


 父は、沖縄の多良間島(宮古列島)の出身で、根っからの沖縄の人です。子どものころからやってるので躍りが上手でした。指笛を鳴らす人、手拍子で受ける人、立ち上がって一緒に踊る人、座は大いに盛り上がり、夜更けまでドンチャンさわぎが続きました。今日が初対面なのに昔からの家族のように打ち解けて、開放的で楽しい雰囲気が生まれています。私は不思議な気がしましたが、そうか、これが沖縄か、この雰囲気が大城みゆきをつくったのかと心から納得がいったのです。そして、その時も、今も、大城みゆきは、沖縄が私のために生んでくれた人だと思っています。


第四回 ■誕生■

 大城みゆきが三鷹市議会議員選挙に立候補するとき、みゆきの父親は強く反対しました。その理由は、

「女性政治家は結婚できなくなる。議員の歳費では生活できない。選挙で個人攻撃にさらされるのはしのびない。」というものでした。


 大城みゆきと沖縄まで同行して説得にあたった岩田康男議員は、「結婚相手は責任をもってさがします。三鷹市の歳費で生活できます。必ず当選させます。都市部の選挙では政党への批判はあるが個人攻撃はありません。」と答えました。


 父親はそれ以上反対しつづける言葉を失い、「好きにしろ!」と叫んだのです。岩田議員は、「責任をもたせていただきます」と頭を下げて帰ってきました。


 平成7年4月に行なわれた三鷹市議会議員選挙で、日本共産党は見事勝利し、大城みゆき議員が誕生しました。これで岩田議員は父親との約束を一つ果たすことができました。


   *     *


「岩田さん、私、結婚したい人ができたんですけど」


大城みゆきは、私との結婚を決めるとすぐ岩田議員に報告しました。


「えーっ、で、どんな人?」


「神田さんという弁護士。沖縄の「反戦地主」の弁護をしている人。お父さんは豊島民商の事務局長をしていたそうです。」 


「神田さんなら昔から知ってるよ。あの人の息子じゃよくしゃべるだろう。」


 岩田議員が驚いたのは言うまでもありません。岩田議員と私の父は、岩田さんが三鷹民主商工会の事務局長をしていたころからの仲間で、個人的にも気が合って親しくしていた間柄だったのです。岩田議員は「あの人の息子なら間違いないだろう」と安心もし、「これで大城みゆきの父親との約束も果たせたな」と安堵したのでした。


 「結婚を祝う会」は、中野サンプラザで仲人を立てない実行委員会形式で行ない、実行委員長は岩田議員にお願いしました。三鷹市長、市議会議長もお祝いに出席してくれました。大城みゆきのお父さんは感激して長い長いお礼の挨拶をしました。


 この日を境に、共産党の市議会議員大城みゆきは大城家でも公認ということになりました。みゆきのお母さんはのちに上京した折、岩田議員に「東京のお父さんになってください」と頼んだそうです。


   *     *


 「お父さんも、お母さんも、あなたが生まれるのをとても心待ちにしていました。あなたが生まれた時、お母さんは2期目の選挙を1カ月後にひかえていました。毎日毎日、「予定日(3月20日)より少しでもいいから早く生まれてきてね!」と、お腹の中のあなたに話しかけていました。あなたはちゃーんと3月11日に、思ったより早く生まれてきました。内心は、お母さんの血液型がRHマイナスで、あなたがプラスなのでどうなるかと心配していました。元気に生まれたことに感謝!」(これは1歳の誕生日を迎えた玄ちゃんへの大城みゆきの手紙の一節です)平成11年3月11日、私たちの息子玄ちゃんが誕生しました。


 現職の議員が出産するというのは、三鷹市では初めてのことでした。新しい生命を生みだすという女性の仕事をやり遂げてホッと息をつくいとまもなく、大城みゆきは、4月日告示の選挙戦に突入していきました。肝心なときに候補者活動ができないという不利な選挙でした。でも、地元の後援会はかえって闘志を燃やして頑張ってくれました。そして、大城みゆきはやはりたくましい沖縄の女です。


 「私は、『命こそ宝』をモットーとし、何よりも命を大切にすることが政治の責任だと訴えてきました。いま、私は子どもを身籠り、子どもを産んでみて、あらためて命の大切さ、尊さを実感しています。玄ちゃん、私の子どもの寝顔を見るたびに平和の尊さをかみしめています。」

 

 ママさん議員として、福祉や平和を大切にしたいという心からの生々しい訴えは、多くの人々の共感をよびました。この選挙で大城みゆきは28人中9位という高位当選を果たしたのです。大城議員、2度目の誕生です。


第五回 ■玄ちゃん■

 子どもの名前は、『沖縄』にちなんだ言葉からつけようと決めていました。女の子なら『ゆいまーる』の結にしよう。男のこのときはどうしようかと考えていました。


 男か女かは生まれるまで知らない方がいいと思っていたのに、検査に行った日赤病院で「あっ、オチンチンが見えてますね」と教えられ、男の子だとわかってしまいました。


 そのころ私の父が、あと3ヶ月だというのに孫の顔を見ることなく、12月に亡くなりました。

父の葬式には700人もの人が集まり、父は本当に多くの方々に親しまれ、愛されていたのだと、あらためて実感しました。


 沖縄に生まれ育ち、沖縄が大好きで、クイチャー踊りが上手だった父。生まれた子は、父のように陽気で大らかに育ってほしいという願いをこめて、父の名前『玄一』から一文字とって『玄』と名付けました。


   *     *


   

 3月生まれの『玄』は保育園に入れなかったので、大城みゆきは、毎日『玄』を連れて市議会の共産党控室に通いました。控室の床に青いビニールシートをひろげ、積み木やガラガラ、ラッパなどのオモチャを並べ、そこに『玄』を寝かせて仕事をしました。


 生活相談があると、「市役所まで来てください」と言って、控室で話を聞きます。電話で済むことは電話で対応しますが、「信号機を設置してほしい」などの問題のとは、「岩田さん、玄ちゃんお願いします」と頼んで、警察や東京電力との交渉に行きました。


 そのほか、議会質問のための資料の整理、調査活動など精力的に働き、岩田議員からは、「子育て中という条件を苦にしないで、他の人と同じように、あるいはそれ以上に仕事をこなしてきた。感心した。」と言われました。


 『玄』にとっては、共産党控室は保育園のようなものでした。ハイハイができるようになると控室から出て、赤いジュウタンの廊下をはいまわり、議会事務局の職員や他党の議員にも「玄ちゃん、玄ちゃん」と可愛がられました。ゼロ歳の『玄』は議会の中で育ったようなものでした。


   *     *     *

 2004年4月、『玄』は井の頭保育園に入ることができました。同じたまご組のお友だちは走り回っているのに、3月生まれの『玄』はまだヨチヨチ歩きの赤ちゃんでした。


 それから5年、早いものでその3月に『玄』は井の頭保育園を卒園しました。卒園アルバムには、先生からこんなメッセージをもらえる子に成長しました。


「まわりのことをさっちして、いろんなアンテナがあるげんちゃん。すぐにおとなにきかず、まずはじぶんでかんがえてみるし、まわりがどうしているかもみてみる。そして、できてしまっていることに いつもかんしんしていました。おとうがわらって げんちゃんをじまんしてしまうのも うなずけて、いっぱいたすけてもらいましたね。ありがとう 」


 保育園最終日の『連絡簿』には、先生がこんな感想を書いてくれました。

「玄ちゃんのお父さん、お母さんに出会えて子どもを心底信頼する姿を見れて、一保育士として、一母親としてよかった、幸せなことだったなと思います。」


   *     *


 毎年夏に、我が家では一週間ほど休暇をいただいて沖縄の大城みゆきの実家に帰ることにしています。

みゆきの家族・親戚みんなが『玄』の成長を楽しみにしています。人が集まればお酒を飲み歌って踊っての宴会がはじまり、『玄』もいつの間にか沖縄の踊りをおぼえてしまいました。


東京で生まれた沖縄の子『玄』の入学を祝うために、大城みゆきのお父さん、お母さん、おじいちゃん(父の父)、叔母さん(父の妹)がわざわざ沖縄からやってきました。おじいちゃんは98歳ですが、元気でシャンとしています。 江東区の叔母さん(父の妹)とおじさん(その夫)もビデオカメラを持ってきてくれました。大城家の絆の強さ、あたたかさを感じます。


 入学式の朝、玄ちゃんを先頭に8人の大人が列をつくって学校まで歩いていきますと、商店街の知り合いの人が、「玄ちゃん、きょうは入学式だね、おめでとう」と声をかけてくれました。ちょうど井の頭公園の桜が、玄ちゃんの入学式を待っていたかのように満開になりました。


第六回 ■信号機■

 東八道路は杉並区に近づいた所で道幅が急に狭くなり、下本宿通りと名前が変わります。道路の左側は牟礼一丁目、右側は世田谷区北烏山五丁目あたりに小さな交差点があります。


 この交差点は、近くにあるスーパーへの買い物、通勤通学、公園に行き来する子どもたちなど沢山の人たちが利用する生活道路なのですが、信号機がありません。車はひっきりなしに通るので、歩行者はなかなか横断するタイミングがつかめず困っています。


 この道は、東八道路から首都高速高井戸インターへの最短の通過道路なので膨大な数の車がなだれ込んできます。運転者のマナーも低下し、渋滞でイライラしたり、乱暴な運転で死亡事故をふくむ交通事故が何件も起きています。


 平山精一さん(仮名)は、牟礼に移り住んで三十年を過ぎました。勤めていた会社も定年で退職し、家のローンも払い終わって、いまは年金暮らし。一応、悠々自適といってもいい生活です。昼間、時間があるので散歩していると、交差点で車が行き過ぎるのを待っている子どもたちの姿が気になって仕方がありません。近所に住む散歩仲間に話してみました。


「あの交差点に信号をつけられないかね」

「事故が起きてからじゃ遅いからね」

「市役所に掛け合えばいいのかな」

「我々だけで行っても相手にされないと困るなあ。誰か頼りになる議員を知らないか」

「共産党の人でよければいるよ」

「どの党だってかまうもんか。その人に頼んでみよう」


こんな話し合いがあって、平山さんたち三人は、大城みゆき議員を訪ねて市役所の共産党控室にやってきました。



   *     *

 
    

 話を聞いて大城みゆきは言いました。

「信号機の設置の問題は、警察と東京電力が交渉相手なんです。まず、要望書を作って交渉に行きましょう」


 日ごろ、まったく縁のない警察署の中に入ると、平山さんたちはさすがに緊張しています。

要望書を読み終わった係官は、住民の説明も聞かずに言いました。


「この交差点の近くに信号機が設置されていますので、この場所にもう一つ信号機を設置することはできません。」


あっさり断られてしまいました。


「でも、今のままだと事故がいつ起きるかわかりませんよ。車優先じゃなく、人の命の方が大事でしょ」

大城みゆきが迫りますと、平山さんたちも頑張ります。


「この交差点のほうが利用者が多いんです。近くに信号機があるからダメだと言うんなら、あっちの信号機をなくして、こっちに設置してください。」


 警察官も負けてはいません。「この信号機も住民の要望があって設置したものです。いずれにしても規定はかえられません。


   *     *


 「こりゃあ無理かもしれない」平山さんは正直そう思いました。他の二人も、「ダメだな、こりゃ」 「近くに信号機が在るしなあ。規定があるんじゃ、しようがないね」と、もうあきらめかけています。


 みんなのガッカリした顔をみて、大城議員は言いました。

「まだ、あきらめるのは早いわよ。次は東京電力に行きましょう」


 みんなで行きました。

「警察の許可が下りれば、いつでもできますよ」そういう返事でした。


「あのね、平山さん。少し時間がかかるけど署名を集めましょう。議会に請願を出して採択させれば三鷹市として警察に要望することができるから」大城議員の提案を聞いて、平山さんは目の前がパーっと明るくなったような気がしました。


「なるほど、そういう手があったのか」


 早速、三人が請願代表者になって請願書名を作り、一軒一軒たずねて署名を集めてまわりました。北烏山の人も、「それは良いことだ」と署名に応じてくれ、短期間で五八五名の署名を集めることができました。


 いよいよ市議会への請願です。大城議員は平山さんたちに請願の進め方について説明しています。

三人とも期待と不安の混ざった緊張した面持ちで大城議員の説明を聞いています。でも、沢山の署名を集め、多くの人に「ご苦労様です」と感謝され、励まされた充実感が表情に明るさを加えているようです。


 「議会への請願には紹介議員が必要なのです。共産党は私がなるけれど、他会派の議員にもみなさんがそれぞれ実情を訴えて、紹介議員になってくれるよう頼んでください。私も力になります。頑張ってね」


 三人はすぐ、それぞれの会派の控室をまわって実情を訴えました。自民党をのぞくすべての会派が紹介議員になってくれました。本会議にかけられました。

討論なし、即決。全員の手が挙がり、全会一致で採択されました。


 大城議員はすぐ担当部長のところに行きました。「信号機の設置の件、いつ警察に行くんですか。」「警察との定期的な協議の場があるので、そこで要望します」部長はそう答えました。


「いつ事故が起きるかわからないんですから、早くしてください。それに、警察に行く前に必ず代表者の方たちから実情を聞いてくださいね」


 そして、市が動きました。交通対策課の課長が、請願代表者の三人をよんで詳しく実情を聞き、それをふまえて警察に要望をしたのです。 その結果、牟礼一丁目の交差点に横断歩道と信号機が設置されることになりました。


第七回 ■井の頭池■

 三鷹の顔である井の頭公園と大城みゆきの関わりは、どうしても触れておかなければならないでしょう。


 大城みゆきが必ず議会で取り上げる質問があります。井の頭池と神田川の湧水復活の事業についてです。

この事業にも歴史があります。長くたゆまない地道な運動には必ず鉄のような意志を持った先駆者がいるものです。


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 「久しぶりに三日間の休暇をもらったので夫婦で旅行に行ってね、旅館でくつろいでいると雨が降ってきて、彼は三鷹の様子を電話で聞いて三鷹が大雨だと分かるともう心配でいられない。結局、旅行は中止して帰ってきたのよ。そんなことが二度や三度じゃなかった。」 今だから言うけど・・・と笑いながらそんな話しを聞かせてくれたのは、両角宗武さんの妻、則子さんです。


 むかし、井の頭・牟礼や北野地域は都市化洪水に悩まされていました。家々が立ち並び、道路が舗装され、降った雨は地下に浸透しないで下水道に集められます。三鷹市の下水道は合流式なので集中豪雨が降ると雨水を取り込む量が急に増え、マンホールのフタが吹っ飛んであふれ出し、床上浸水などの被害が続いていたのです。


 両角宗武さんは1963年に初当選して以来、七期二八年、日本共産党三鷹市議会議員として活躍した人です。この時期の両角さんにとって都市化洪水の解決は大きな研究テーマでした。公共下水道への雨水の流出を抑制すると言う仕事でした。


 練馬区に東京都下水道局の雨水浸透マスの実験施設があると聞き、両角さんは井の頭池や神田川に関心をもつ市民に声を掛け、見学に行きました。雨水浸透マスのフタを取ってバケツ一杯の水を注ぐと、マスは一気に水を吸い込みます。両角さんは「これだ!」と思いました。


 雨水を下水道に流すのではなく、マスを設置して地下に浸透させれば下水道があふれることは無くなるのではないか。それに地下水が豊富になれば、井の頭池の湧水を復活させることが出来るかも知れない。このイメージがいまも両角さんの情熱を支えているのです。


 1990年11月、両角さんは地域の有志とともに市政研究会湧水復活グループを結成しました。

それ以来、今日まで湧水復活グループは六十回の勉強会、二回の市民集会を重ねてきました。

また、コミュニティまつりには必ずパネルを展示して雨水浸透マスの普及を訴え続けてきたのです。

同時に、両角さんは共産党市議です。議会での質問などで市に要求し続けました。


 1992年(平成4年)に三鷹市は仙川・丸池湧水保全モデル事業を始め、1996年には「井の頭・神田川湧水復活事業」引き継ぎました。この事業は、湧水復活には浸透マスが有効であり、五年間で4300基を設置し、年間25万8000トンの雨水を地下に浸透させるという計画で、本年度分として500基を予算化しました。


ちなみに、井の頭池の池水の容積は8万4000トンです。井の頭コミュニティセンターで開かれた説明会には多くの市民が詰めかけて申請が相次ぎ、わずか数ヶ月で500基の予算がなくなってしまうと言う反響でした。


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 大城みゆきは、両角さんの後継者として市議予定候補に立つことが決まったとき、両角さんから「一緒に歩きたい」と言われました。


<支持者回りかな>と思って両角さんの家を訪ねますと、両角さんが最初に教えてくれたのは、湧水復活グループの活動でした。井の頭池をぐるりと一回りしたあと、神田川に沿って三鷹台駅まで歩き、そこここで両角さんは井の頭池・神田川に雨水を復活させるというロマンを語り続けたのです。


 大城みゆきは、湧水復活グループに入会し、会合や勉強会に参加してこの問題を深く学ぶことが出来、それが議員になってからの活動や議会質問にも生かされました。井の頭池に湧水を復活させるためには基本的に二つのことが重要です。一つは東京都・武蔵野市・三鷹市の三者による推進体制の確立です。もう一つは雨水浸透マスを井の頭周辺に集中的に設置することです。大城みゆきはそのことを主張し続けてきました。


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 平成16年10月下旬の早朝のことでした。「両角さん、両角さん、井の頭池がすごく綺麗になっているよ!」「池の底までよく見える!」


 井の頭池の周りを散歩している人たちが、両角さんの家に飛んできて大声で知らせてくれました。

両角さんはカメラをもって池に駆けつけました。池はいつものよどんだ茶っぽい色をした水溜まりのような池ではなく、むかしの自然のままの井の頭池が戻ったようでした。


 両角さんはこの井の頭で生まれ、子どもの頃はきれいな井の頭池でよく遊びました。昭和30年頃までは、天然記念物のミヤコタナゴ、オイカワ、アブラハヤなど清水にしか住まない魚がいっぱい泳いでいました。池を回ってみると枯れた筈のお茶の水にも小さな湧水が見えましたが、弁天池は透明度抜群で池底が鮮明に見えていました。


 弁天池の透明度は30日余にわたって続きました。以前、お茶の水がきれいになったことがありましたが、3日しか持ちませんでした。今回、三十日も清水状態が続いたのはなぜか?大雨だけでは30日も続く筈がない。これは長年の雨水浸透マスの普及が生んだ成果ではないかと両角さんは考えました。


 両角さんの直観は後に、東京都建設局西部公園緑地事務所が専門の会社に委託して行った調査によって裏付けられました。調査報告書は、分析の結論を次のように結んでいます。


「・・・これら地下水回復のための雨水浸透マスや降雨量が多かったことが相互に作用し合って、今回のような池の水がかなり廣い範囲で清水状態になったものと判断できる。池の水の浄化施設や対策と雨水浸透マスの設置を並行して行えば、井の頭池の景観や環境の改善につながるものと期待できる。」


 両角さんの夢とロマンを実現する道筋が見えてきました。井の頭公園は東京都が管理する公園です。大城みゆきは、わき水復活や外環反対の市民の声を代弁する都議が三鷹に必要だと強く痛感しました。


第八回 ■乳幼児医療費の助成制度の拡充■

 6月初旬、牟礼団地でのことでした。大城みゆきの演説を聴いていた幼児連れの若いお母さんたちが数人、話しを聞き終えたところで笑顔で拍手しています。


 「乳幼児医療費助成の拡充にとり組む大城みゆきです。安心して子育てできる都政を実現しましょう!」


 若いお母さんたちに向かって手を振りながら、そう呼びかけると、「そうだ、そうだ!」「がんばってえ!」と応えてくれました。街の雰囲気が明らかに変わってきました。


 牟礼団地での経験は、何か大きな変化を予感させる確かな手応えとして感じられたのです。

これは、乳幼児医療費の助成を大幅に拡充させた成果や安心子育ての共産党の訴えが、若いお母さんたちの心に届きつつあるからではないか、そう感じたのです。


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 子どもの医療費無料化の制度を求める運動は1970年代にお母さんたちの運動から始まり、日本共産党は議会で条例提案するなど全国各地でその実現に努力しました。


 これらの運動が実り、1992年、東京都は3歳未満を対象に無料化の制度化を決定し、その後、都内全域で対象年齢が小学校入学前まで広がり、「港区、台東区、北区では中3まで」という自治体も生まれ、マスコミも少子化対策のカギとして報道するようになっています。


 三鷹市の場合、ゼロ歳児は全員無料ですが、1歳児以上は所得制限が付けられています。市は、これは本来、国や都が対応すべき課題であるとして、国や都に要望するだけで、市独自の対応はしないと言う態度を崩しません。


 平成14年12月議会で、大城みゆきの質問に対する安田市長の答弁は「所得制限の問題ですが、私の福祉に対する基本的な考え方が、所得のある人には負担してもらう」というものでした。


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 子育て中の若いお母さんたちの声は切実です。


 Aさんの話

「うちは中原で、歯医者はつつじヶ丘に行くんです。すると調布の人や世田谷の人はタダなのに、三鷹市民は有料ですごく損したようでイヤでした。病院で働いている友人も、道路一本隔てただけなのに有料と無料になるなんて納得いかないよねと言っています。」


 Bさんの話

「うちの子が風邪を引いて熱を出した時、私は市販の薬で済まそうとしたんだけど効かなくて、結局、高熱が出て救急外来に連れて行ったので、余計お金がかかってしまったんです。早いうちに行けば良いって分かっているけど、病院に行くと診察代、薬代と掛かることを思うと、つい病院でなく、市販の薬で何とかしのぎたいと思っちゃうんです。23区に住む友人が一寸喉が痛いとか、食欲がおちてると言う段階ですぐ病院に連れて行っているから、学校を休むと言うほどにはならないと言う話を聞いて、うらやましく思いました。」


 大城みゆきは、お母さんたちの話から三多摩格差を実感しこの不公平は正さなければならない。また安心子育てのために、子どもの医療費無料化をと決意を新たにしたのです。


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 平成16年に入り、乳幼児医療費助成の制度拡充を求める運動に転機が訪れました。


 安藤明子さんは「ポストの数ほど保育所を」というスローガンで有名な保育運動の草分けの時代に子育てをした世代で、いまお孫さん(6歳と2歳)のお世話をしています。安藤さんは、新日本婦人の会の会員で乳幼児医療費の無料化の運動をこの10数年ずーっと続けてきました。


 ことしも新日本婦人の会三鷹支部は三保連(三鷹市保育運動連絡会)と共同で、乳幼児医療費助成制度の拡充を求める請願を3月議会に提出しました。これが自民党系の会派を除く全会派の賛成で採択されたのです。

10年間、毎年出している請願ですが、賛成してくれるのは共産党だけ、一度も採択されることがなかったのです。

それでもあきらめず運動を続けて来た成果がようやく実ったのです。


 <議会はやっと通った。一日も早く実施して欲しい。そのためにはどうしたらいいか>安藤さんは、大城みゆき議員に相談しました。「条例改正だから市長交渉をしましょう」大城議員はすぐ動き、市長交渉の場をセットしました。


 9月2日。当日は市長の都合で、助役との交渉になりました。新婦人三鷹支部と三保連から市民が8名、大城みゆき議員も立ち会いました。


 安藤さんは新婦人を代表して訴えました。「乳幼児医療費の助成は、本来、国や都がやるべきことだと私たちは考えています。でも、国や都がやらないからと知らん顔をしないで、三鷹市独自ても助成して欲しいのです。」


 

 助役の回答は「議会を通ったことは重く受け止めています。」というものでした。<すぐやる>と言わなかったので、不安もありましたが、市が<重く受け止めている>ことが分かっただけでも成果だと考えました。


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 平成16年10月「ふれあいと支え合いで教育・子育てにやさしいまちづくり」ーーーー三鷹市次世代育成支援行動計画2010(仮称)素案ーーーという文書が各議員に配布されました。


 大城みゆきは、乳幼児医療費助成の拡充の項目に注目します。「所得制限の撤廃について市長会を通じて東京都へ要望します。」とあるだけです。早速、11月の決算委員会で質問しました。


 「国や東京都に要望することは当然のことなのですが、三鷹市として独自に検討する、子育て支援を本当に応援するんだという姿勢を示すということが、今の時期大事ではないか」 同時に、日本共産党三鷹市議会議員団として、「素案」についての緊急要望書を清原市長に提出しました。その中で、乳幼児医療費助成の拡充について「三鷹市独自の施策こそ支援計画といえる」と要望しました。


 11月30日、清原市長からの回答書が届きました。


 「乳幼児医療費助成制度の拡充を図るため・・・市としても独自の対応策を検討します」と書かれています。そして、「次世代育成支援行動計画2010」の正式文書の中に、その文言がそのまま書き加えられました。行政文書を原案から修正させるという異例の措置が取られたのです。独自の対応とは、予算をつけると言うことです。


 

 平成17年3月議会に提出された予算案には、所得制限の大幅緩和(年収1千万円まで無料)が盛り込まれました。この制度は今年の10月1日から、4歳の誕生日の月・未満の子どもを対象に実施されます。


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 最後に、平成17年3月議会における大城みゆきの格調高い質問をお聞き下さい。


 「所得制限が大幅に拡充されたことは一定の評価をいたしますが、なぜ所得制限を設けなければならないのでしょうか。・・・どの自治体も経済支援という視点からだけでなく、少子化対策としての子育て支援の位置づけで制度の拡充にとり組んでいます。・・・親の所得に関係なく、全ての子どもが、いつでも安心して医療が受けられるようにするべきではないでしょうか。」


第八回で一応の終了です。続編は考えているところです。